躁と鬱と私

鬱から双極へ転化し。家事のできない名ばかりの主婦

心のカルテ 4 -踏み出してしまった現実逃避-

昨日、やっと憧れている先生の布花のお教室に行ってまいりました。

そのお教室に通っていたのはもう10数年前のこと。先生はもう私のこと、忘れておられるだろうなあと思っていたら、覚えていてくださいました!とても嬉しかったです。

そのお教室は電車・車共に2時間かかるので、主人が行き帰り運転手をしてくれたのですが、受講は5時間。

主人はお教室にも着いてきてくれ、「うちの子をよろしくお願いします」??と、挨拶してくれました。

先生は今では雑誌の取材を受けたり、本の作成の依頼を受けられるまでに有名になられており、先生とお会いした途端心臓がばくばく!

そんな私の心細さを感じてくれたのでしょうね。主人は受講5時間の間ずっと、私の横にいてサポートまでしてくれました。たぶん退屈だったと思います。

布花は作業をしながら、繊細で重要な場所を動画や写メにおさめ、さらに詳しいことはメモにとります。メモをとってはいるもののぐちゃぐちゃ。でもふと横を見たら主人が詳しくメもしをとってくれているのです!先生の作り方もずっと見ていてくれて覚えたぞ!と。

 

こんな私たち。今の主人が言うには、私たちは「ツインソウル」だと言います。そして私も思います。今までの苦しかった過去があって故の不思議な魂のつながり。また機会があれば書きたいと思います。

ですが。((またここから懐古録です)

 

強迫性障害うつ病でしっかり家事もできなくなり、泣いてる私を見ては怒鳴る主人を見ては、もうこんな家庭、壊れて破綻しようがどうでもいいと思ってました。

家事などの面では母の援助で支えられていましたが、主人の母への横柄な態度への怒りと腹立ち。家庭にいて孤独って救いようがないなあと思っていました。

昔は違ったよね?優しかったよね?私は父とは違う優しい人がいいの、だから結婚したのに。裏切られた気持ちでした。こんな私が嫌なら離婚すればいいのに、そうも思ってました。

 

そんな時、ふと見た出会い系サイト。

私が変わりゆく始まり。

当時は今のようなものばかりえはなく、ただメールして楽しくお喋りする、そんなサイトもあり、この時から私は変わっていきました。 現実逃避したかったのです。メールをしてるその時だけは昔の明るかった私に戻ってました。

 

何人かとメールをしていましたが、1人、特に仲良くしていたメル友がいました。もちろん男性です。

その頃の私は、はっきり覚えていませんが30代前半だったような気がします。相手の方も35歳と年齢も近く、やがて毎日メールするようになりました。

そして半年経った頃、その方に「会ってお喋りしてみたい」そう言われ。

 

不思議なことにそのことに罪悪感はありませんでした。

なぜでしょうね。言うまでもないことです。追い詰められていました。

それに友達だから、そういう感覚をお互いに持っていたから会いやすかったのもあります。

これは不倫じゃない。ただ友達と会うだけ。男友達がいたっていいよね、そう思いながら。

 

もしこのことを主人に咎められたとしたとしても、崖から落ちそうだったあの時の私は突き飛ばしていたかも知れません。

心を楽にさせて、疲れてもうへとへとなの、もう壊れそうなの、見捨ててくれてもいいから!そう言っていたかも知れません。

 

その方の彼女という位置付けにはなりましたが、この人とは汚い終わりをしたくないと思い、1年半後のラストがくるまで感情面だけでのお付き合いをしました。

 

その方と会う日はうつ症状もなぜか感じることなく、ただひたすら楽しみだな、そんな気持ちばかりの精神状態でいられることに驚いていました。

オシャレで態度も紳士的で、何より私の話をとても楽しそうに聞いてくれて、そんな私を好きだと言ってくれるのがそれが嬉しくて。その反面で、きっと主人は私を好きでも大切でもないんだ、家政婦なんだ、そう思うと自分が情けなくなって。

でも必ずくる、現実逃避の時間の終わり。

 

2週間に1度、こんなデートをしていました。

そして始めは帰りが6時だったのが、7時になり、8時になり。

私の行動はやがて大胆になっていきました。

 

このきっかけ、この行為が、私をさらに変えて行くことになるのです。

ただの現実逃避とわかっていてもやめられませんでした。

 

      ――続きます――

 

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心のカルテ 3 -母の援助と現実逃避への第一歩-

今度の土曜日、憧れの先生の布花のお教室に行きます。

久しぶりに先生に会えることや、また先生の布花を作れることが楽しみでたまらなく、はしゃぎまくってます。綺麗な布花はたくさんありますが、「綺麗だな」という印象だけ。でも先生の布花は感銘を受けるのです。以前2時間かけてまで先生のところに通っていたのはそのせいです。

 

で、先日風邪をひいてた私ですが、もうすっかり治っております。

ですが!あれ以来、毎日私のPCの上に「活参」という「肉体疲労・病中病後」のための薬が乗せられているのです!それは土曜日の布花教室に万全の体調でいどめ!とのことだそうで。

また、我が家からは車で2時間かかるのですが、行き帰り、主人が運転手となり連れて行ってもらいます。お教室の3時間の間、ヒマだろうなあ…とは思うのですが、主人はそんなことより私が楽しそうにお教室から出てくる姿が見たいんだそうです。

 

心から感謝してます。どこまでも守られてるなあ、とも思います。

ですが。(またここから懐古録です)

 

あの時、うつ病になっても主人は心配してるとはとても思えず、、その証拠に病院にも付いては来てくれませんでした。頼み込んで付いてきてもらったこともありましたが、ただ横にいるだけ、質問などもなく、淡々と支払いを済ませて帰る。

この人は私のことを心配していない、私はただの家政婦なんだ、そう感じて、何でこの人と私は一緒にいるんだろう、またこんな感情を抱いて悲しくてたまらず。

 

当時ははまだ今ほどうつ症状が深刻なものではなかったように思います。

ですが、掃除機や洗濯、その他もろもるの家事、中でも「ごはんを作る」それが強迫に加えてのうつ症状で段々と辛くなっていき。

当時、うつ病は今のように騒がれていた病気でなかったため、これは心の病気、体の病気じゃないんだから怠けているだけと認識していており、さらに症状は悪化して。

 

そんな時助けてくれたのはまた母です。

同じ圏内でしたが、それでも電車だと2時間かかり、まだ強迫もあった私を心配して、母は私の家の1駅こえたところにあるマンションを借りて、夕食作りなど手伝いにきてくれるようになりました。

 

本当なら夫婦2人の問題。2人で解決していくのが当たり前のはず。

だけど、ただ引け目を感じていたため、母に頼るしかありませんでした。

でも母は疑問を感じていたそうです。

 

なぜ妻がこんな病気になっているのに、それでも尚平気で夕食を作らせるのか。

私までマンション借りてまでして助けに来ているのに、なぜ自分にお礼の一言もないのか。

そうなのです。主人は、母がわざわざ私のいるところまでまで来てくれることを、当たり前と思っていたようです。

 

母には本当に申し訳ないことをしました。

でもどうしても私は主婦である限り、家事を何1つサボってはいけない、そう思い込んでいて。

なんでこんなこと考えていたんでしょうね。

また、母は過保護だ、そう思われるかも知れませんね。でもここのまま娘が壊されていくのをただ見ているだけ、そんなことできなかったそうです。

私がいけないのです。「外で食べてきて」そう頼めば良かった、「離婚」を切り出せば良かった、今ではそう思えるのに、あの当時はそんなこと頭に微塵もなく母を巻き込んでしまって。

 

主人と会話することもなくなり、そんな気もなくなり、何だか見知らぬ人のように見えてきて。

そんな時、ふと見た出会い系サイト。誰かと話をして、この辛さから現実逃避したい。

この時から私は変わっていきました。

 

       ――続きます――

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心のカルテ -うつ病の始まり-

このところ不思議な現象が起こっております。

朝目覚めて1階にに降りると、まずはなぜかソファに寝転ぶ私。

するとすぐラインがピンポン。今朝もでした。

「よく寝れた?」主人からです!

え!?なんで起きたのわかるん!?主人に問い詰めると、不思議な現象の犯人はなんとソファのあるリビングのどこかに隠されているカメラからだったのです!まさにストーカーです!

 

鬱でしんどくなると決まってソファでゴロンとなる私。たぶん、時々そのカメラを通して、私の1日の体調を見てくれているようです。ここまでするか!? 過保護な主人です。

と思いながらもやっぱり嬉しいのです。って言うか仕事してるの!?とも言いたくなる…。

 

こんな主人と一緒にいると、昔のことはまるで夢でも見ていたのかと思うことがよくあります。

でもやはりそれは現実で。

 

強迫で苦しんでる私は、一緒に住んでいながらも、ひとりぼっちだなあと感じていました。

病院を探していましたが、当時はあまり強迫という病気を、病気だと理解してくれる医師がおらず、1人でいろんな病院を転々としていました。

主人には相談しませんでした。どうせ答えなんか返ってこない。

 

この時の唯一、そしてただ1人の味方は母でした。

母は私の症状を知るやいなや恐ろしいスピードでいろんな病院を探し回ってくれました。

何の病気かわからなかった私は、ある大学病院で「強迫性障害」だと知らされました。

当初は投薬から始まりました。でも病状は変わらずエスカレートしていくばかり。

何軒の病院を回ったことでしょう。10軒は超えていました。

 

1時間で済ませる料理も、お肉やお魚が怖くなっていき、2時間以上かけて作っていました。

この時、主人はこんな料理を食べてもおいしいと感じるんだろうか、そんなことを考えていました。

でもやがてそんなこと聞く気にもならなくなっていきました。

思うことは、なんでこの人と一緒にまだ私は暮らしているんだろう、です。

 

この時、私の心を支えてくれていたものが布花でした。

布花を創っているときだけは幸せで、例えそこで強迫が起きてもそれでも触れていたかった、そんな存在でした。

 

でも1年ほどこんな生活が続き、やがて6畳の部屋でさえも1時間かけて掃除機をかけるまでになった頃はもうノイローゼに陥っていました。

 

あるとき体がだるく、動けない、そう感じるようになっていきました。

うつ病の始まりです。

 

病院でも「うつ病」と診断され、そのことを主人に報告しましたが、だからといって毎日の生活は何も変わらずに。

そして私は、私が悪いんだ、こんな奥さんを持った主人に申し訳ない、なんとかして普通の生活を守らなければ、家事を休んではいけないんだ、そう思い込んでいました。

 

でも。

必死になってる私に一言でいいから言って欲しかった「無理しないで」。

そして、あの時の主人に「どうして私を救ってくれないの?」と言えたら良かったのに。

 

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心のカルテ -苦しみの始まり-

ブログでは皆ほとんどが見知らぬもの同士。

私がどこの誰かもわからないはずで、こんな場だからこそ吐き出せるのに、なぜか今まで一度も書いたことがない話があります。なぜでしょう。わかりません。でもたぶんそれは今の環境に感謝しているからなのだと思います。感謝しているのに、昔のことを恨んではいけない、そう思っているんだと思います。

でも、時にふっと思い返すと、心を抑えきれない悲しみに落ち、やがて腹立ちにも変わります。

 

でもこの最近、ここで全て吐き出してこの気持ちを終わりにしたいと思いました。昔のことは忘れよう、今幸せだからいいんだ、そう心から思いたいと思いました。

これは最後まで書くことができるかわかりませんが、長い話になるので何回かに分けて書いていこうと思います。もしかしたら、これが書き終わればブログも終了しようか、とも思っています。

 

今。

今の私は病気の症状さえ除けば、きっと幸せであり、また取り巻く環境も恵まれてもいるのだと思います。感謝しています。

何より、病気と闘っているのは私1人ではなく、家族みなで、そして何より一番近くにいる主人が私の病状を理解し、自分のことより、また他のなによりも私を優先してくれていることに感謝してやみません。

 

ですが、この環境は数年前まで当たり前のものではありませんでした。

 

始まりは、有るとき突然やってきた強迫性障害から。

それは本当に突然やってきました。

食器を洗っている時に感じた違和感。なぜか洗っても洗っても汚れている、そう感じる不思議な感情が湧き出てきました。理由のわからない「汚い」と思い込む感覚。

後にわかった強迫性障害の「不潔恐怖」といわれるそれは、あっという間にいろいろなものに、手洗いや身支度、家事全般に関して、それだけではなく、本当に書き切れないくらいにいろんなものに広がっていきました。

例えば食器。それは何度も洗うだけでは済まされず、やがて食器棚のものを全部取り出して棚を消毒するようになっていきました。

1日に何回着替えていたのか。一体一回何十分手洗いしてたのか。何回同じものを洗濯しては洗い直していたのか。やがてはクリーニングさえも信用できなくなっていったのです。

 

いろんな妄想も頭に浮かんでくるのです。

トイレに入ると、便器に服が落ちて浸かったんじゃないか、無意識のうちに手を便器の水に付けたんじゃないか。

さっき服を着替えたけど、どこで着替えたの?トイレ?ちゃんと部屋で?

お風呂に入れば、このシャンプーと書かれているものは本当にシャンプーなの?油ではないの?わからないから洗えない!

こんな風に笑えないようなことに翻弄され、私の1日は苦しさとパニックで泣きじゃくる毎日でした。

 

誰か助けて!心の中でも、声に出してもそう叫んでいました。

だけど。

一番そばにいるはずの、一番その苦しみを見ているはずの主人は、私の強迫行為と、泣きじゃくる姿を見て嫌気がさしたようです。

主人から出た言葉は私への怒りから出た言葉ばかりでした。

「仕事で疲れてるんだからもうこれ以上疲れさせるのはやめてくれ!」

「洗ってるのがなんでわからない!?」そう怒鳴り散らされていました。

気遣いなどどこにもなく、ただ単にこんな私が嫌で仕方ない、そう思っているのがわかりました。

 

「ごめん!ごめん…」

「迷惑かけてごめん」 

ただひたすらこんな迷惑な自分が嫌で、申し訳なくて、涙が出て、泣いて謝ることしかできなくて、

これはもう地獄だ、そう思い。

 

これが私の苦しみの始まりです。

今まで私のブログを読んでいて下さっていた方々の、思い描く私の優しい優しいはずの主人。

その主人は「病めるときも健やかなるときも」そう誓って結ばれたはずだったのに、

その時は病んだ私をどうやら見捨てたように見えました。

 

      ――続きます――

 

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ご無沙汰?しております…?

あれから…

4日もの間、ばたっと風邪で倒れておりました…。

引きこもりの私は、病院と言われるものへ行くと必ずと言ってもいいほど風邪をいただいてくるのです。抵抗力がないんでしょうね、たぶん。

 

今回も産婦人科という、風邪とは無縁と思われる病院にいったものの、なぜか風邪を持ち帰ってしまったようです。主人はなんともないのに私だけ。今もまだ頭がぼやーんとして重いのですが、何とか動けるようになりました。

 

うつ症状って風邪の症状に似ているところがありますよね。

なので、昔はただだるいだけの風邪症状なら、それをうつ症状だと思いこみ、なんか変だと熱を計ると高熱だった!ということがよくありました。

今回ももしやと思い、我が家で愛用している風邪薬を服用してみたところ、回復してまいりました。

 

風邪が治ってきたら、なぜか減薬も楽になり、今では、先日のような追い詰められたような感覚もなく。

私はあの時、疲れていたのかも知れません。

自分でちゃんと家事と趣味と無理なくこなせていたつもりでも、やはりどこかで以前のように時間に焦り、知らず知らずのうちにムリをしており、不眠に陥っていたのはきっとそのせいだったのだと思います。

 

今週はだらだらするんだ!って決めています。

なぜなら、19日(土)、夢にまでみた憧れと懐かしい布花の先生にお会いできるからです。それまでに体調を崩すなどもってのほかなのです!!

先生には私が体調を壊していることを伝えております。

受講時間は本当は13~18時までなのですが、先生からは、体調と相談しながら好きな時間に来て好きな時間に終え、それが2時間であったとしても、ただお花を創る楽しみを感じてもらえたら、そう言っていただいています。振り替えも大丈夫と言っていただいているので、やっと生涯を通してやりたかった布花、諦めることなくやっていけそうです。

 

20代後半で始め、30代で諦めた布花。

なぜあの時諦めないといけなかったのか、あの時はなぜ誰も諦めることを今とは違い否定もしなかったのか。

書くことをずっと躊躇してきましたが、次回からは強迫を発症してから今に至るまでの十数年についての私の悲しみを書き綴っていきたいと思います。

決して私のこの今の幸せは、昔からあったものではなかったこと、誰か見知らぬ人に吐き出したいと思うのです。

 

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減薬フェードアウト!?甘いのよ、私は!

体調もそれなりに良く、減薬もスムーズだなと感じていたのに。

お正月休みが明ける前日あたりから気持ちが落ちかけている。

鬱々した時間が少しずつ増えていった。

だるくて仕方ない。

眠れもしない。眠れても浅い眠りで、不眠に入ったよう。

起きると頭が押しつぶされそうに締め付けられる感じがする。

 

減薬は順調でもうフェードアウトすると思っていたのに、なんでまた今になって?

って、この考え方自体、馬鹿げている。

減薬フェードアウト?考えればそんな甘い減薬なんてあるはずないのに、見当違いも甚だしい!

 

だんだん落ちてくる。

あまりに苦しくて、トイレに行くのさえ億劫になる。

何もできなくて、家事とか趣味とかできない、と言うかどうでもよくなってくる。

何もかもどうでもよくなってくる。

目の前が真っ暗で、この先なんかないみたいに感じる。

もっと薬が飲みたい、それが本音なくせに。でも薬が増えるのは嫌だ、それも本音。

でも断薬が遠い先に思えてくる。

 

正直、減薬が終わったとしても、いわゆる「普通の状態」が待ってる保証なんてない。

薬を飲んでいなかった頃は大鬱だったんだから。

 

だけど、どうしても断薬したい理由がいくつかある。

薬なしの生活に戻りたい。犯罪者みたいに感じて生きていくのが嫌だから。これが一番の理由。

もう1つは「麻酔」が使えないから。

一番期待している、修正型電気痙攣療法(m-ECT)が受けられないから。

そしてTMSの効果も期待できなくなるから。

うつ症状をなくす、修正型電気痙攣療法(m-ECT)は「麻酔」が必須だけど、すでに麻酔効果のあるロヒプノールを飲んでいては受けられない。

TMSも私に合ってるかどうかはまだわからないが、やはりロヒプノールを飲んでると効果はでない。

 

まだ薬は手元に2mgや1mg合わせて、中サイズのビニール袋に入りきらないほどある。

この薬の山からいつも取っていた。

これはまずいと思った。苦しくてたまらないとき思わず手に取ってしまいかねない。

 

なら、決めた量だけ小袋に入れれば。あとは主人に隠してもらえば私はそれ以上飲めない。

そんな状態にしようと思った。これなら決めた量しか飲まずに済む。

主治医が言った「しんどい時は飲んでもいい」

今はそうは思わない。そんな時期はもう通り過ぎたんだと思うから。

 

この3日、クリアした。

自信が出た、なんて思えない。だってまだ今の量で動けることはほんの少しなんだから。

いつ崩れたっておかしくない。

たまらなくなって、「薬どこ!?」って主人に電話しかねない。

思うのは、恐ろしく苦しい、そんな感覚だけ。ただのうつ状態とは違うような、まるで麻薬でもやめるような泣きたいくらいの。

頭は輪っかみたいなもので締め付けられた感じで、倦怠感、肩で息をするくらいの。横になっても同じ。逃げ場ない。

 

ロヒプノールで苦しんでる人が断薬する場合、ラストは錠剤を粉々にして、そんな話をよく聞く。そこまで悲惨。

主人はもう入院して一気にやめようという。こんな私をもう見てられない、悲しい、辛いと言う。

たぶんこの先ますます症状はひどくなっていくだろうから。そして私は希死念慮が強いから。

 

入院した場合、ロヒプノールをやめるときの補助剤の点滴を打ち、眠りを誘って比較的楽に断薬できる。

そんなのずるい。悪いことしたんだから苦しんでやめなさいよ!そう言いたくなる。

私は嫌だ。私は自力で断薬させるって決めたんだから、最後まで自力で。

希死念慮は確かに強いけれど、断薬で命を絶とうなんて微塵も思ってない。

 

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みんなの一番の願い

 

ふと、昨年の年末イベントのことが思い返されてきた

毎年、恒例になっている私の実家の年末イベントはカラオケだった。

 

今年はどうしようかとアンケートをとった。

と言っても私の家族は、母と弟とかわいい義妹、そして主人と私。

カラオケ・お食事会のどちらがいいか。

 

母に「お食事会ならでもどこがいいかなあ」と言うと、

「みかんはカラオケがいいの知ってるよ。

みかんが楽しいと思える場所なら、皆もきっと楽しい場所なんだよ」

 

心の中でわかっていた、皆が願うこと。

それは、こんな病気を持つ私が楽しい、そう感じれることならそれは皆も楽しい。

私の心が、気持ちが、願うことが、皆の中心になる。家族が優しく支えてくれる。

 

主人や義妹も、そして弟も、カラオケにしよう、と言ってくれた。

母は座っているけど、背中が痛いとよく言っている。私が起こしたODの事故のせい。

本当は横になりたいんじゃないだろうか。

そのために長椅子の部屋を予約しておいたが、ずっと座っていた。歌ってもくれた。

歌うの、あんまり好きじゃないのわかってる。でもしらけないように。

みかん、私、心から楽しいよ、って言ってくれてるみたいに楽しそうに歌ってくれた。

 

おつまみをつまんでいるときに、

「弟にブログ読んでくれてんのー!?」そう口を尖らせて聞くと、また「読んでない」だ。

「なんでよー!」と言う私に、弟は、

「悲しくて読めない」

絶句した。 

え?長い話だから読む気がしない、って以前言ってたくせに。

それが本音だったの?…

 

以前、私が病気のために諦めた布花。

弟が「俺も姉ちゃんの大好きな布花を創ってみるよ!」そして本当に実現してくれた。

弟は布花の基礎もわからないのに、きっとそこには「とりあえずやってみようよ、諦めないで」そんな気持ちが込められていた。あれ以来、私は布花を15年ぶりに再開したのだ。

 

そして帰り際、弟が主人に言った言葉は「姉をどうぞよろしくお願いします」だった。

いつもいつもこの言葉を弟が言わなかったときなんかない。

 

「みかんが一番楽しいと思えるように」

それがみんなの一番の願い。いつも私を中心に回っている。

 

楽しいね、楽しいねってみんなで盛り上げてくれたカラオケイベント。

みんながしてくれてること、当たり前だなんて思ってない。

ごめんね。ごめんね。でもなぜかありがとうって言えない。

私のせい。あがいても勝てない病気を持ち続ける私には、みんなをいつか心から喜ばせてあげられるようなことなどないのだから。

みんなの優しい支えが、なぜか私には痛くて、辛くて、悲しくて、今これを書いてて泣きそうになってる私がいる。

 

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