躁と鬱と私

鬱から双極へ転化し。家事のできない名ばかりの主婦

くるくる回るループの中で

いつだって下がったり上がったり、そんな人生だったけれど、何とか誠実に生きようと前を向いてきたつもりだった昔。
でも躁うつ病と診断され、その病気がどんなものであるかを知ってから、どんなに励まされても心底からは前向きになれていない私がいる。
なにをしていても。楽しいと思える瞬間でさえも。

 

以前、強迫性障害のブログを書いていたけど、強迫には「治癒」への1本の道があり、その道を知った人は救われ、病気の終焉、つまり完治を迎えることができる。
私もその道を理解すればするほど、「きっといつか」と思えるようになれ、希望が持って病気と闘い続けている。完治まではいけていないが、終焉があると今も信じていられる。希望がある。

 

でも躁うつには1本の道などない。
くるくる回るループの中で生きていき、そしてその渦からは逃れられない。
鬱が来て、躁がきて、そして寛解がきて。そんな日々が人生が終わるまで続いていく。
症状に翻弄されて、どうしたらいいのかと自分の体や心をコントロールすることを考え続けて生きていく。

 

疲れた先に鬱が来れば、「そんなときもあるさ」なんて思えるほど私は立派ではない。
そう思える人がいるなら、それこそこの病気を「受け入れられた人」だ。
ループから逃れられた人、そう言えるかも知れない。

 

一瞬、受け入れたと感じることがあっても、苦しみをまた感じた時に思うのは「ああ、躁うつに振り回されるのはもう嫌だ」、そう受け入れてなどいない私がいる。

 

終焉がない病気は躁うつだけじゃないことくらいわかっている。
実際に、私の母方の従姉妹の子は身体障害者で、必死に生きたいのに仕事だって頑張りたいのに、やはり思うようにいかず嘆きの日々を送っているのだから。
「諦めないで」「がんばって」
そう言いたいけど、私自身がもう人生を精一杯生きることの辛さを感じている今、口にできない。
苦しい気持ちわかるもの。私だって嘆いているもの。もがいているもの。

 

こうやって嘆いて怯えている人生はなんて辛いんだろう。
逃げたい・救われたい、頭の中はそればかりで。
もし強迫のように1本の道を辿れば先が見える、そんな病気だったらどんなに救われただろう。

 

ただ、私に限ってのことだけど、この病気になってから1つ受け止められるようになったこともあった。

 

以前は何事も自分の力だけで頑張っていきたい、そう思ってた。
必死に生きたいと思っていたのも、こんな感情にある。
でも今、この病気になり、誰かの支えがなければ生きる力も失ってしまいそうになる私は、
自力だけで生きることの難しさを知り、それは私に限ったわけでなく、誰しも支えなしには生きてはいけないことを理解できるようになりつつある。
どんなに偉業を成し遂げた人でも、誰かの支えなしに生きてきたわけではない。
考えてみれば、何かを成し遂げたいと思っていたあの頃も実は誰かの支えの元に生きてきたはずなのに、なんて傲慢だったんだろう、そう思う。

こんな風に人生は心の持ちようで変わることもあるかも知れない。それは私たち障害者や病気を持っている人だけじゃなく、誰もが同じ日々を過ごせるわけじゃない、そう思うからだ。

 

でも私はまだ心からわかってるわけじゃない。未だにこの病気のループに巻き込まれてもがいている。今体調は安定しているが、いつ鬱に転じるか不安な心にまだ縛られてるのだから。

 

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